2013年 米 ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督
どんよりとした雲に覆われ、空気の冷え込んだ、ペンシルヴェニアの山の中の田舎町。とにかく常に寒そうで陰鬱な田舎の住宅地のありようが印象的だ。季節的にも秋から冬で、どんよりとした空からいつも雨か雪が降っていて、パリっと晴れた空が映る事はない。この陰鬱な空気感が映画の内容と非常にマッチしている。本作は適材適所のキャスティングで、主要キャストは皆いい仕事をしていたが、ヒュー・ジャックマンはあまりにいつもの彼と雰囲気が違いすぎて、ファンだったらショックを受けたかもしれない。が、特にファンではないワタシは、演技者としての確かな腕前をまざまざと見せてもらったという気分だった。ご贔屓のジェイクもキャラが立っていて良かったし、153分の長尺なれども、長さを感じさせない緊迫した内容で見応えのあるサスペンスだった。
この写真は三白眼ではないけれども、そういう顔で映っているシーンが多かった
冒頭、息子を連れて山の中で鹿撃ちをするシーンで、ジャックマン演じる父親ケラーが、頼りがいがあって子煩悩だが異様に狂信的な面を持っているらしい事が示唆される。祈りを唱えつつも鹿を撃ち殺し、適度に間引いた方が頭数調整になる、などと息子に教え込む。信心はするらしいが、殺生もする。勝手な解釈で自分に都合のいいように自分の行為を正当化する傾向がある事が、映画のしょっぱなに示唆されるのである。
ジャックマン演じるケラーの、あの狂信的な性格は父親譲りなのかどうか。彼の父親はなぜ自殺したのか。それが直接は筋に絡んでこないので、ただ自殺したという事が分かるだけのだが、過去に父親が自殺しているという記事をジェイク演じるロキ刑事がみつけるのは、ただたんに、あの古い空き家とケラーとの関係を刑事が知るためだけのようにも見える。しかし、実際は父親の自殺とケラーのあの性格には、なんらかの因果関係があるのだろうと思われる。
おとっつぁんは暴走機関車状態 誰にも彼を止める事はできない
近所に住む黒人の友人バーチ宅に感謝祭に訪れて交流するシーンでは、俳優たちの演技があまりにも自然なので、素人の家族を撮ったドキュメンタリー番組でも見ているような気分になった。ジャックマン演じるケラーの妻を演じるのはマリア・ベロ。この人も巧かった。ちょっと目を離した隙に娘を誘拐されて、3日経っても4日経っても戻って来なかったら、どんな母親もああいう感じになるのではないかと思われた。下手な女優がやると、いかにも「私、ショック受けておかしくなりかかってます」「鬱っちゃってます」みたいな記号的な演技になりがちだと思うのだが、マリア・ベロは憔悴も傷心も凄く自然なのである。それこそドキュメンタリーを見ているみたいに。実にタダモノではない。
タダモノではないといえば、今回もポール・ダノは凄かった。この人の演技は憑依的というかなんというか、ポール・ダノという俳優が消えて、完全に役に成り切っている感じがする。今回はいつにも増して、その憑依度が高かった。
少女たちが失踪した時に、近くに停まっていた不審なキャンピングカーを運転していたアレックス(ポール・ダノ)は容疑者として警察に引っ張られるが証拠不十分で釈放される。しかし、生来の狂信的な思い込みから、アレックスが娘たちをどこかに隠していると信じて疑わないケラーは、その激しい思い込みから怒りに衝き動かされてアレックスを監禁し、とんでもない行動に出る。
ポール・ダノは、今回とても気の毒な役だったが、なりきり度は高く、すばらしかった。が、こんな特殊な役ばかりやっていると、しかもそれが素晴らしく巧いと、ますます普通の青年の役は来なくなるだろうなぁ、と思われた。誰もそんな普通の役でポール・ダノを見たいと思わなくなってしまうだろう。もう、そうなっているのかもしれないけれど…。
とにかくポール・ダノ演じるアレックスが気の毒で、見ているのが辛いシーンが多かった
そして、ご贔屓ジェイク・ジレンホールはというと、今回は優秀な刑事役。しかし、エリートではない。少年院上がりで、体にタトゥなども入れたりしていて、特に語られはしないけれども、何か屈折した過去を持っていそうな若手刑事ロキ役だ。この映画でのジェイクは、常に憂鬱そうな鬱屈した空気を漂わせている。彼の初登場は、深夜のダイナーで感謝祭に一人、チャイニーズ・フードを食べるシーンだ。外は大雨が降っていて店の中には彼一人。孤独で鬱屈している。しかし、仕事に使命感は持っていて、刑事としては優秀なのである。少女二人の失踪事件が起きて無線で呼び出され、彼はこの事件を担当する事になり、やたらに短気で思い込みの激しいケラーと再々ぶつかりながらも、捜査にあたることになる。
ジェイクの顔は近年ますます濃くなり、昨今、イケメン路線を放棄しつつあるので、眉も整えなくなったせいか、濃い眉毛のすぐ下にぎょろぎょろとした大きな目があり、また睫毛もびっしりと濃いし、本作では一応ヒゲは剃っているのだが、剃り跡も青々と濃い、という感じで、とにかくぎゅうぎゅうと濃い。猛烈に濃い。本作でジェイクが演じるロキ刑事といのは、名前からして多分イタリア系なんだと思うけれど、ジェイクも、知らなければイタリア系じゃないかと思ってしまう濃い顔なので適役かもしれない。北欧の血が入っているとは到底思えない濃さだ。
若い頃と比べると顔や雰囲気の濃さが確実に3割は増した感じではあるが、このところ作品には恵まれて、俳優としてはジャンプアップの時期なのだろうと思う。
ワタシ個人としては、普通の髪型で普通の顔で、ちょっと哀愁をにじませた雰囲気の青年を演じてほしい気もするけれども、一時期の低迷を抜け出してキャリア飛躍の時期を迎えているようなので、この次の公開作「複製された男」(原題:Enemy)も、本作にも増してルックスは濃く、かなりモサったらしいけれども、映画は面白いようなので楽しみにしている。ちなみに、「プリズナーズ」も「複製された男」も、監督はカナダの新星ドゥニ・ヴィルヌーヴである。ハリウッドに、また新しい監督と俳優のコンビが生まれたのかもしれない。
「複製された男」のジェイク 二役なので濃さも2倍だ
ともあれ、本作のジェイクは、むっつりと黙っていて余計な事は言わないけれども内面は真面目で、細かい事を見逃さず、常に冷静さをキープし(キープしきれなくなる時もあるのだが)、暴走するケラーを牽制しつつ、事件解決に向けて地道に捜査を続ける刑事を印象的に演じていて儲け役だったと思う。
そして、最後のクレジットを見るまで、その役で出ていたとは気づかなかったおばちゃん専門職メリッサ・レオ。今回は実年齢よりもかなり上の役を演じていて、おばちゃんというよりおばあちゃんに近かったが、メリッサ・レオ。さすがの存在感を見せてもらった。メリッサ・レオがなんの変哲もないただの初老の女を演じるわけもないが、メリッサ・レオだけに肝っ玉の座り具合がタダモノではなかった。いや〜。さすがと申し上げておきましょう。
…と、かように演技達者な俳優ばかりを主要キャストに集めているので、見応えのある映画にならないわけもない本作だが、同じく子どもを誘拐された父親でも、一方の黒人一家の父親を演じるテレンス・ハワードが、隣人の暴走と共犯の強要に苦悩する「普通の父親」を好演していた。ワタシは、このテレンス・ハワードという人も、なんとなく好ましいと思っている俳優の一人なのだけど、今回は柄に合った役で、そうだろうねぇ、気の毒に…と思いながら見た。
娘の行方は知りたいし、心配ではあるけれども、ケラーのような真似はどうしても出来ないし、したくもない。確証もないのに人を監禁してそんな事をしていいわけがない、と苦悩し、煩悶し、あまりのストレスで吐いてしまう。その憔悴ぶりから夫たちが何をしているのかを察知する彼の妻を演じるのはヴィオラ・ディヴィス。当初はショックを受けるものの、娘の行方を知りたいばかりに、自分たちは関与せずケラーにはしたいようにさせておくのよ、と亭主に言う。こういう場合は、亭主よりも女房の方が図太かったりもする。
真犯人の動機も、大元をたどれば愛情を繋ぎ止めたいというところから発したものであることを考えると、この映画は、極限状況に至れば、いかに普段はふつうに暮らしている穏やかな市民でも、どんな隠れた人間性を露(あらわ)にするか分からない、人は状況によっては容易に悪魔に近くなってしまうのだ、という事を描いた作品なのだろうな、と感じた。
人間は、自分にとって、その行為を正当化するにたる理由さえあれば、どんな事でもやってしまいかねない可能性を、誰しも、多少なりとも心の奥底に眠らせて生きているのかもしれない。それが生涯、目を醒さないまま生きおおせたら、それはそれで幸せというものなのかもしれない。 そんな事を考えたりした。
映画のトーンや見たあとの印象が、なんとなく「羊たちの沈黙」を思い出させる映画だった。
それにしても、アメリカの田舎町ってコワイ。