− This is the beginning of a beautiful friendship −
この映画が作られるというニュースを初めて聞いたのは2年前だったか3年前だったか。その後、製作中というニュースが入ってきて、欧米で封切られたというニュースが入ってきて、日本ではまだ見られないのね…と思っていたのは去年だったか一昨年だったか。
ともあれ、随分待ったけれどもやっと日本でも封切られて見ることができた。ずっと待っていた映画を見ることはできたのだけど、今度はずっと使ってきたパソコンが壊れて、すぐに記事が書けなかったりして…(笑)新しいパソコンを買ってようやくのことに記事をUPできた。何かと長い道のりだった。
配役が決まった時から、ボルグを演じるスヴェリル・グドナソンはルックスから雰囲気からソックリだと分かっていたし、映画の中でもそれがいかんなく発揮されて、俳優が演じているという感じがしないほどになりきって見えた。対するマッケンロー役はシャイア・ラブーフじゃマッケンローに気の毒だな、という感じはあり、他に居なかったものかねぇと思っていたし、ややみすぼらしい感じは否めなかったが、演技は確かで、マッケンローらしい雰囲気をそれなりに出していたと思う。若き日のマッケンローはもっと可愛くて肌が綺麗で、ボルグよりも少し背が高く、すらっとして、坊ちゃん坊ちゃんしていたとは思うけれども、案外、シャイア・ラブーフは悪くなかったと思う。ややルックスがシャビーではあったにせよ。
マッケンローの父親がNYの一流のファームに所属している有名な弁護士で、マッケンローは常に一番でなければダメだというこの父に精神的に叱咤激励を受けながら育ってきた様子も紹介されている。マッケンロー役のシャイア・ラブーフは賛否両論かもしれないが、マッケンロー・シニアを演じたイアン・ブラックマンが、ビックリするほどよく似ていた。白いピケ帽を被り、客席から心配そうに息子の試合をみつめる、愛嬌のある丸い目と丸い鼻のマッケンロー・シニアは、ボルグ役のグドナソンに次いで、かなりのソックリさんぶりだったと思う。
実際のマッケンロー・シニア 演じていた俳優もソックリだった
この映画が出来て間もない時期にマッケンローが試写を見て、映画の出来に不満を持っている、という記事を読んでいたので、どんな出来になったものやらと思っていたのだが、最終的には外連味もなくかなり真面目に作られたスポーツライバル物語となり、ボルグの伝記映画としても悪くない出来だったと思う。この映画がレールを外すことなく、けっこうきちんと作られていたのは、先立つ数年前にアメリカのHBO SPORTSが制作した「MCENROE BORG fire & ice」というよく出来たドキュメンタリーがあったからだと思う。本作はほとんどこのドキュメンタリーをベースにして作られていたように思われる。
ボルグが子供の頃は短気でキレやすく、うまくいかないと試合中に暴言を吐いたり、ラケットを投げつけたりする少年だった、ということも、このドキュメンタリーを見ていたので知っていた。コーチと親が相談し、半年間試合に出さないというペナルティを与え、それがボルグに感情を抑えてプレイすることを学ばせたのだという。
映画で少年時代のボルグ(15歳以下)を演じていたのは、ボルグの実の息子であるレオだった。随分背が高く、15歳よりも年かさに見えたけれども、顔はボルグにそっくりで父親譲りのブロンドと青い目、しかもジュニアで頭角を表しつつあるレオは少年時代にボルグがやっていたという、住んでいた団地の壁で壁打ちをするシーンを、父親のバックハンドの時の癖もちゃんと織り交ぜて滑らかにこなしていた。壁打ちというのは簡単そうに見えるが、やってみると案外難しいもので、延々と続けることができるというのは、けっこう上手じゃないと出来ないのである。レオは、試合中に癇癪を起こしてテニスクラブから追放され、一人涙を流すエモーショナルなシーンなども案外うまく演じていた。俳優の才能もありそうだ。このレオは、ボルグの3人目の妻(現在の奥さん)パトリシアが生んだ息子で、ボルグは目の中に入れても痛くないほど可愛がっているようだ。ジュニアで頭角を表しつつあるレオが3年後、18歳ぐらいになり、ATPツアーに参戦するようになる日がとても楽しみだ。
こうした少年時代のエピソードに加え、若くしてテニス界の頂点を極め、追われる立場になり、常勝を期待される重圧が次第に重荷になってきていたボルグの、有名人であり、第一人者であることの深い孤独を描いていたのが、この映画の良さだと思う。全盛期のボルグはモンテカルロに住んで居たらしいが、冒頭、練習場から戻る際に車の鍵をどこかに忘れてしまい、車で帰ることができずに歩いて街にでたが、ボルグだとわかると人に囲まれて大変なので、犯罪者のように顔を伏せながら逃げるように通りを歩き、目についたバーに入り、カウンター内の店主が彼を知らないことにほっとするシーンは、きっと実際にそういう事があったのだろうと推察される。節税の為や、ヨーロッパの大会に参戦するのに便利だからモンテカルロに住んでいたのだろうが、フランス語は話せなかったというのもリアルだ。節税のためにモンテカルロに住んでいて、フランス語も話せるようになったテニス選手はジョコビッチぐらいなのかもしれない。他にもいるかもしれないが、分からない。
しかしまぁ、本作の追い込まれた様子のボルグを見ていると、あれだけストレスが溜まっていたら、26歳での引退はやむなしだったのだろうな、と納得できる。それまでウインブルドンを4連覇してきて、5連覇を周囲から期待され、それがひときわ重苦しく感じられたことの裏には、台頭著しいアメリカの若者、マッケンローの存在があったのは否めない事実だろう。
一見、正反対に見えるこの二人が、実は通いあう魂を持っていたというのも配剤の妙というか、面白いところだ。マッケンローはそもそも2歳半年上のボルグのファンで、彼に憧れてプロのテニス選手になることを決めたのだが(髪を長くして額にバンドを巻いて髪を押さえるスタイルなども必死にマネをしていたらしい)、ボルグの方も最初に会った時からマッケンローに好意を持った、というのが興味深い。根っこに似た者同士な部分があり、それを会いしなに感じ取ったからかもしれないが、人の相性の不思議というものを感じさせる。
ボルグがマッケンローに最初から好感を感じた、という部分を、映画の中でもちゃんと表現していたのが、ワタシ的にはポイントが高かった。
制作が北欧の3国で、ボルグをメインに描いているので、ボルグファンのワタシは満足したけれども、一緒に見に行ったマッケンローファンの年長の先輩(男性)は、マッケンロー役が似てないし、肝心の試合だけでなく、その他の試合なども、もっとじっくり描いてほしかった、とやや不満げだった。
確かに、尺をもう少し長くして、ウインブルドン決勝戦だけでなく、それ以外の試合などもっと時間をかけて描くとよかったかもしれないとはワタシも思った。多分、あの決勝戦に向けてすべてが収斂していく構成なので、他の試合で焦点をぼかしたくなかったのだろうけど、試合のシーンはもっとあってもよかったように思う。が、ウインブルドン決勝戦は、実際の試合の実写も織り交ぜながら、臨場感のある演出で見応えはあった。特に昔の電光掲示板の得点ボードが印象的で、ポイントが加わる時のガシャ!という音など、重みがあってずしんと来た。また、大写しになるシーンでは、俳優たちがぞれぞれ、自分が演じる選手の動きの癖などをうまく捉えて表現しており(ボルグのバックハンド時の癖やリターン時の左右への体の揺らし方、マッケンローのクローズドスタンスのサービングフォームなど)、見ていて「うふふ」とほほが緩んだ。また、ボルグ、マッケンローだけでなく、ステラン・スカルスガルドが演じたボルグのコーチのベルゲリンや、同時期のテニス選手、ビタス・ゲルライティスやピーター・フレミングなども演じた俳優が非常によく似ており、作品全体のムードを形成するのに寄与していたと思う。
ボルグの最初の妻であるマリアナ・シミオネスクを演じたツヴァ・ノヴォトニーも、なんとなく雰囲気が似ていたような気がする。元は女子テニス選手で、ボルグの長年のガールフレンドで最初の妻になったマリアナ。ウインブルドン5連覇後に結婚したものの、それは4年しか続かなかったのだが、彼女はボルグと結婚できて幸せだったと言っている。ボルグが最もボルグであった時期にガールフレンドであり、その頂点で妻になったのは彼女だけなのだから、その言葉に嘘はないのだろう。実際には転戦に付き合って世界中を旅するのは大変だったと思うし、イライラしたり落ち込んだりすることもあるだろうプロスポーツ選手にずっと付き従うというのは容易なことではないと思うが、それでも、あの時期の神のようだったボルグにずっと寄り添っていた女性は彼女だけだったのだから、それは生涯の誇りにできる事実であるだろう。この映画にも彼女の協力があり、それが孤独で追い詰められたボルグの描写にリアリズムを与えていたと思う。
もう一息の掘り下げがあればもっといい映画になったような気もするけれども、ボルグファンとしては十分に満足できる作品だった。
スヴェリル・グドナソンのなりきりだけに頼ることなく、伝説の一戦と伝説の二人の選手の「美しい友情の始まり」が描かれていて、見終わって気持ちよく映画館を出られる作品だった。
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